エンジニアド/ノンエンジニアド

28日は夕方スパイラルにて「ティンバライズ建築展:都市木造のフロンティア」を見る。企画・事務局は東大生産研の腰原研究室。すばらしい展覧会だった。会場に対する展示構成もよい。「エンジニアード・ウッド」という言葉の響きが印象に残る。まさにエンジニアリングの適用できる別様の「材」へとつくりかえられた木の世界。耐震・耐火性能のテストをパスすれば、木質構造でオフィスビルや学校や・・をつくれる。そうした「ティンバライズ」の潮流と可能性をプロモートする展覧会である。
19世紀の鉄って、建築をはじめてエンジニアリングの対象に変えた材料だと思うけど(要するに、均質な「線」が集積したものだからこそ、圧縮・引張・曲げがそれとして取り出されたのであろう)、逆にいえばそれまでの石・煉瓦や木の建物はノンエンジニアドであったと考えてよい。建築は激しく変わる層となかなか変わらない層とのギャップが大きくて、新石器時代からさほど変わらないような家屋も世界的にみればいくらでもある。エンジニアリングが幅を利かせる趨勢のなかでは、それらは「ノン」エンジニアドという否定形の規定にならざるをえないのだろう。法レベルもそうだし、概念レベルでも。たとえば伝統的な、風土的な民家、とか。ヴァナキュラーという言葉はだからそのままでは対抗的な力しかなくて、「インダストリアル・ヴァナキュラー」のように横断性をもたせないと本来の射程をもちえない。
「ティンバライズ建築」は、ノンエンジニアドという階層に閉じこめられていた「材料」としての木を、エンジニアドの世界に連れ出してやること。
一方、最近はノンエンジニアドという言葉を災害復興がらみでよく目にする。建築雑誌5月号特集「BOSAI立国日本」にも何ヶ所か出てきたと思う。先進国の建築専門家・建設業が、そのままノンエンジニアドの世界に入っていっても役に立たないか、あるいはかえってその世界を撹乱してしまう。自分たちの持っているエンジニアドな体系をやわらかく分解してノンエンジニアドな世界に馴染ませなければならない。これも面白い問題だ。
エンジニアド/ノンエンジニアドの間の関係や往復はまだまだ色々ありそう。というか、両者の「あわい」に何となく位置付いているのが実は多数派かもしれない。在来木造とか。あえていえばプセウド・エンジニアドじゃない? 伝統の世界にも、そして厳密なエンジニアリングの世界にもならないが、むしろ社会的な必要性から半技術的枠組みで了解されているようなもの。違うかな。