ナイーブ・ヒストリーなんてことを考える。

 建築雑誌2010年3月号「特集ナイーブ・アーキテクチャー」を読む。正直きわどいテーマだが、1943年生まれの真壁智治さんが今日の状況をその可能性において真摯に見極めようとする姿勢が、本号にある種の立体的な成立理由を与えている。加えて、巻頭の対談によって、この特集がたんなる「無自覚なナイーブ」の礼賛でないことを何重にも強調することでこの特集を成立させている。読者はまずこのことを十分に認識しなければならない。
 さて僕は、「ナイーブ」というキーワードから、このところ気になっていた歴史感覚に関することをすぐさま連想した(あの遺留品研究所の真壁さんの企画ゆえ、ということもあるのだろう)。時間というものへの繊細な感性のありようが最近当たり前のものになりはじめている。たとえばありふれた都市景観のなかの名もない事物に、かつてのような異議申し立て的なプロパガンダを必要とすることなく、むしろ心地よい発見を伴った小さな愛着を感じるようなセンス。昨日までのすべてが等価に歴史であるとするような感覚(先週のトウキョウ建築コレクションのプロジェクト展で、某J研の学生さんたちがこの種のセンスを血肉化しているのを確認して感心した)。こういう時間感覚をナイーブ・ヒストリーと呼べるのではないか。これはある種のリテラシーの問題である。そして過去=現在への読み書き能力を身に付けると、一見とるに足らない小さな出来事が何を語りうるかという価値が大事になって、大文字の切断的な出来事とか、大きな循環や反復の構造は、視野から後退していく。これも本居宣長的問題構成に通じる。とはいえ、歴史感覚みたいなものの変質の徹底には時間がかかるような気もする。たぶんいましばらく繊細な微分的時間感覚をきちんと描き出す作業を進め、そのなかから切断や不変性の見極めを新たになすべきなのだろう。それが真っ当な戦略じゃないかな。