トウキョウ建築コレクション プロジェクト展 総括座談会は・・・

終了後、学生たちとT先生とで飲む。今日も終電で帰宅。まずは座談会で僕が言った4つのことをほぼそのまま書きます。4つとも同じようなことを言っているけど。あとは寝てから書く。
(1) プロトコルと問題設定:まちづくり的実践等では、その場をつくる諸関係に沿ってワークショップ等のプロトコル(手続き)を走らせることに精一杯になりがちだが、自分はどんな問題を立てて関わったのか、あるいは走りながらどんな問題を見いだしてきたのかを聞きたい(もちろん、プロトコル自体の組み立てもひとつのテーマ)。
(2) コレクトネス:場所性、住民、生活、記憶、公開性・・・といったキーワードは今やあまりにも当たり前だが、そこに批判できない正しさがあると思ってしまったら終わり。判断をすべてあちらにあずけてしまい、自分はこちらに追いやられる。そこをどう組み立てるかを聞きたい。
(3) 歴史的位置:自分がやっていることには、たいていたくさんの先達がいる。自分がどんな試行錯誤のシリーズに連なっているか、そして、そのなかの何をどう継承し、展開させたか、あるいは何を新たに考えたのかを聞きたい。
(4) フォーマット:論文や設計というフォーマットは、背後に諸関係があっても最終的には著者や制作者という個人が責任を引き取る形式で、それを前提に議論が可能。その点、プロジェクト展は当の現場の諸関係から誰の名で何をどう切り出すかが決まっていない。逆に言えばフォーマットそのものにデザインの可能性がある。結局それはプロジェクトのなかの自分(たち)の位置とか範囲を示すことでもある。

寝ます。

(追記)
起きました。
昨日はコメンテーターのひとり馬場正尊さんが体調を崩されて欠席。急遽、北川啓介さんと僕と、昨日会場に来ることのできた発表者たちが大きな卓袱台?を囲んで座談会とあいなりました。司会は主催者側の齊藤さん(ご苦労様)。
さて、書くべきかどうか考えたが、やはり書く。僕の問いかけは、ごく一部の学生さんをのぞき、ほぼ通じなかった。すべりまくった。大学院生で、しかもあの場に何かを持ってこようとした意気込みあるはずの人たちが、この程度の問いに戸惑ったり、独り言みたいな感想しか言えなかったり、そういう視点にいま気づいたとか言っているようで大丈夫か。あと、議論の場そのものをなし崩しにしかねない発言を垂れ流しちゃいかんだろ。それで、上記の4つは、会場で繰り返し言ったことを最後にあらためて整理したもの。最後の(4)に書いたことだけど、まちづくりにせよ何にせよ、今回発表されたプロジェクトのどれもが多くの人や組織を巻き込んだ複合的な、輪郭のはっきりしない場というか集団というか、そういうものの活動なので、そのなかでは学生も自分の役割みたいなものに沿って動いたり喋ったりするしかない面がある(もちろんその役割は所与のものじゃなく発見していくんだろうが)。ある学生さんが言ってたように報告書もお金出してくれた人やそこに巻き込まれてる人たちに向かって、自分の役割に沿って書かざるをえない。独自のフォーマットがある。いずれにせよ実践の現場ではロールプレイングになる。それを経験すること自体にも意味がある。けれどトウキョウ建築コレクション・プロジェクト展の最大の意義は、学生がそのロールプレイングの場からいったん抜け出て考えるきっかけを与えていることではないか。もちろん、さほどすっきり出られるものではない(アウトプットが論文だったら著者=個人の責任に収れんさせるという条件がフォーマットに内包されているが、それでも簡単じゃないんだから)。プレゼンするのは個人なのか研究室なのか、もっと横断的なグループなのか、そこからしてすでに切り出しのデザインがはじまっていなければならない。別の視点でいえば、現場のロールプレイングでの人や活動や情報の束を、何らかの立場において再編集することになる。自分たちはヒルサイドテラスにどんな立場で何をもっていくのか。そこを意識するだけでも、(1)〜(3)のような問題にも次々に考えが及んでいくはずで、卓袱台での議論も先生のコメント聞いて一喜一憂するだけじゃない、もっと踏み込んだものになりうるし、そして個々の現場へ持ち帰るべきポイントもいろいろ見つかるのではないか。こういうことだって昔からやられてるよ、全国町並みゼミ(1978年〜現在も継続)とかさ。