卒業設計公開講評会おわる。

1月31日(日)に、駿河台キャンパスのアカデミーコモンで2009年度の卒業設計公開講評会が行われました。対象は専任教員が学内選考で選出した優秀9作品。ゲスト・クリティークは野沢正光氏と寺田尚樹氏。かなり厳しい批評をしてくださいました。結果的には、私たちの研究室では Yさんが「堀口賞」、Y君が「佳作」をいただきました。おめでとう。ただ、私も審査員の一人でしたから、審査の経過等は学科公式サイトで発表されるのを待つことにして、ここでは個人的な総評的コメントを少しだけ書きます。

全体に迫力不足でした。原因は、たぶん、ほとんどの学生が「問題」を立て損ねていることにありそうです。「問題」というのは、解かれるべき問い、ということ。社会問題をとりあげればよいという話ではない。どうやって空間やモノの設計で解くべき「問題」にまで翻訳できるかが勝負。もうちょっと建築っぽいテーマ、たとえばコミュニケーションを発生させる、とかいうのもそれだけでは「問題」にならない。特定の状況と関わらせることではじめて「問題」になる。敷地とか密度とか住人像とか・・・あらゆる条件が、「問題」を立てるという行為に動員される。そこに説得力があれば、強い「問題」になる。強い「問題」は、解法を厳しく制約するだろうが、制約はガイドでもある。ただし複数のガイドが互いに矛盾しているのが普通。それを解いてみせる。たぶんそれは建築的形式を使って「問題」の構造を新しいかたちで可視化するということに近いかもしれない。それが建築にできること、つまり建築的であるということだと思います。「よい問題」を立てないと、建築の持ち腐れになる。

もうひとつ。ヒトの脳は、5〜6万年前くらいから全く変わっていないそうです。その頃ヒトは洞窟に住んで、狩に出た男たちが野営するときにはテントみたいなものをつくった。それから地上に恒久的な建築が出現するまでに4〜5万年かかったけど、その後は社会も建築も先端では激しく変わってきた(逆に変わる必要のないところではずーっと変わらなかった)。この間、脳は同じです。ということは先になされたことの継承と批判という営みがいかに大きな力を持っているかということです。「問題」はつねに立てられ、解かれてきた。そのアーカイブに手を突っ込んでみないと、「よい問題」は立てられないでしょう。