「自然」という問題:生成的都市と不可侵の自然。

 ちょっと前、某建築誌の、これからの10年を占う、みたいなアンケート記事を学生たちが研究室で読んでいたのでちょっと横に座って錚々たる人々の予言?をフムフムと聞いていたら、藤森照信先生は過去10年間で提起されたいくつかの問題が深められるのが今後の10年間だろうと書いていて、その問題群のひとつに「建築と自然」の関係というのがあがっていた。最近はメタボリズムリバイバルみたいだし、創発とか生態学とかを語るのは当たり前、福岡伸一三中信宏を建築関係者も読んでいる(僕も)。これまで建築で語られる自然はどちらかといえば「緑」とか「太陽」とか「水」のことで、藤森先生の話も直接には植物のことであったが、当然「生成的・生態的システム」の議論も無縁でない。
 一昨日、都市史特論の授業でソウルの清渓川(チョンゲチョン)再生事業をとりあげた。昨年もこの話をしたが、今回喋りながら発見した(見解が変わった)のは(最初から分かってたみたいに喋ったけど)、あの李明博のプロジェクトによって清渓川は「自然」に閉じこめられたのではないかということだ。清渓川はもともと都市排水のために開削された川。むかしは洗濯の風景とともにあったし、戦後は朝鮮戦争難民のスクォッター・ベルトになった。そういう川がいったんコンクリートで蓋をされ、ついで「自然の再生」みたいな物語とともに再・創造される、そのことによってあの場所は実はしなやかなダイナミズムを失ったのではないか。すでに川の両サイドにガンガン超高層が建ちはじめているはずだが、それは(ちょっと持って回った言い方をすれば)この間まで川を覆っていたコンクリートの生まれ変わりであろう。「自然」と名付けられてしまった川と、超高層ビル群とは、コインの表裏の関係にある。がんじがらめだ。次に動くときは壮絶なカタストロフだなあ(予言)。
 日本でいえば神社の境内という「自然」は実はとてもよく似た境遇にあるんじゃなかろうか(『建築雑誌』2009年2月号の拙稿参照)。都市化・近代化のなかで「自然」としての自己規定を遂げた神社が、いよいよ身動き取れなくなっている。そろそろ解放の時だと思うのだが如何。コンペとかどうでしょう。長い目でみれば先見の明、英断ということになるでせう。
 さて冒頭の話に戻るのだが、僕の大好きな生成的都市論は理想化するとレッセ・フェール擁護になってしまい、それが肯定されればされるほど、別の場所で純化された「自然」が保存される。どっちも理想的自然状態。これからの10年、救出作戦を反動にならないように遂行することが課題でせう。
(追記)三菱一號館も「自然」の一例。そこに徹底的な科学と技術が動員されたこと(それは最大限に評価されるべきことである)も含めて、近代の神社境内(科学的造林技術の世界)とか清渓川とよく似ている。その背後(というか片割れというか)にレッセフェールがあるので松山巌さんは吠える。