続・クロノグラフィア

前に「時の記録術」というのを考えて、それをクロノグラフィアと勝手に名付ける、などと書いたのだが(→この記事この記事この記事)、ちょっとググったら、ビザンツ帝国最盛期のミカエル・プセロス Michael Psellos という人が同時代の詳しい歴史書を書いたそうで、その題名が『クロノグラフィア chronographia 』というのだとか。やられた(←アホ)。たぶんギリシア語にすでにあるんだろうな。でもこれきっと実際には年代記のことだろう。つまり「時間」の「記録(グラフ)」じゃなくて、時間 time line に沿った出来事の記録だな、たぶん。つまり任意の時間はそのときの出来事と混同されている。
前の記事も書きながら思ったんだけど、やっぱり時間論はむずかしい。topo-graphy / topo-logy, geo-graphy / geo-logy, ethno-graphy / ethno-logy, photo-graphy / photo-logy ・・・というように「誌(術)/学(理)」は区別されてきた。前者は個別の事物=形態の採集的記録あるいはその術。後者は個別事象を超えた一般的な理論だ(最後のphoto-は、写真術/光学、おおーっ)。しかし、「時誌」も「時学」も、今までそういうものがないし、頑張って考えてもよく分からない。chrono-logy だってやっぱり年代記になってしまう。時間においては、graphy と logy が不分明なのだ(これ発見だと思う、個人的に)。

で、未読のままだった郡司ペギオ=幸夫『時間の正体〜デジャブ・因果論・量子論』(講談社選書メチエ、2008)を手にとってあとがきをちらっと読むとこう書いてある。時間とは変化である。変化を知るためには変わらぬ土台が必要(前に僕が書いた比喩でいえば、魚に対する水槽の関係ですね)。加えて、一般に対象の外に立たなければ対象は認識できない。車の場合、私は車の外に出て、車と道路とを一緒に観察することで、車が動いていることが分かる。では「現在」という車はどうか。私はこの車に永久に閉じこめられている。「現在」から一度も出たことのない者がどうやってその外(過去や未来)と内(現在)を区別しうるのか。読まなきゃ。