日比谷の日生劇場。RCラーメンを見ることにした。

PC06624512月6日(日)、日比谷の日生劇場村野藤吾・1963)を、係の方に丁寧に御案内いただきながら学生たちと見学した。19世紀末のアール・ヌーヴォー、セセッションから20世紀初の表現主義の雰囲気が濃厚で、かつ戦後の工業的な材料が使いこなされている。竣工当時は隣にライトの帝国ホテルが並び立っていた(1967年に解体発表)。七十にさし掛かろうという村野が持てるものすべてを投入しようとした気迫が伝わってくる。できるだけそのすべてを読もうと思うけれど、完全に眼の負け。ホワイエ階段周辺の壁面のうねりやら、ツタのような細くしなやかな手摺やら、柔らかい丸穴を開けた天井の石膏整形版やら・・・に喚声をあげたり溜め息を漏らしたり・・・という完敗状態。世紀末から表現主義までの主題が「表層」にあったとすれば、眼はまさに表層の線や面を追わされてしまい、それらがつくる内的世界(長谷川堯のいう獄舎)に身体ごとからめとられてしまう。
このままではいかん、と頭を叩き起こして、そうだこれはビルだ、構造はRCラーメンだと思い直して鉄筋コンクリートのゴツイ(はずの)梁の扱いに眼を集中させることにした。

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ホワイエの天井は穴あき石膏版で全面覆われているようだが、冷静にみれば格子状に梁形が出ていることに気づく。ただし柱に取付くところで梁形に丸みをつけて直交方向の梁形に連続させているので、天井は角の取れた格間となり、これが石膏版の丸穴(穴の断面も角がとれている)とグラフィカルな調和をみせ、かつ格間の内に照明を(グループ化して)仕込んでいるので、天井全体の光の分布が実に曖昧なラーメンの表現(隠匿)ともなっているようなのだ。

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窓際へ寄ってみると、柱がファサードより一歩引いたところに立っている。この柱列では、窓側の天井は梁下端と面一(つらいち)になって張り出し、空中で終わる。ここで間接照明をとり、天井を折り上げて、柱芯上にとられた開口部を高くする。この処理のために、ファサードに平行の梁はまったく意識されず、かわりに直交方向の梁がぬうっと(虹梁のように)生え出てきて、窓から突き出た瞬間に銅版を巻かれて外部では異様な装飾になる。
このほかにもいろいろ観察したが、圧倒的な表層の世界にあって、構造はおおむね隠されるが、ときに表層の一部として顕れ、またときにそれを突き破るように顔を出したかと思えば次の瞬間にはまた装飾に転ずるといった風なのだ。構造と表層とが相互に入れ替わるようにして互いの可能性を言い当てようとする、そういうデザインのあり方と言えばよいだろうか。
ブルータルな構造表現主義が隆盛する60年代の初頭にあって、これだけの柔軟(自由)な総合を担保した村野が際立たないはずはない。その根のところに、「様式の上にあれ」(1919)の意義を読み込むべきなのだということがようやくちょっと分かった。言説と作品とをどう結び合わせるかという問いに対しても村野は特異だ。