日本の家は、素晴らしい家具に似ている。

昨年「家具道具室内史学会」という学会が設立されていて、この方面にも少なからず関心を寄せる身として遅ればせながらその会誌創刊号(2009年5月刊)を読んだ。家具や室内はこれまで建築史も民族学も考古学もうまく扱えずに来ている、新しい問題領域になりうる、という意識が共有されている。10+1 web でも建築学会誌でも室内特集が組まれたし、この方面はどうやらすでに広範な潜在的関心を集めているらしい。で、会誌『家具道具室内史』創刊号だが、面白かったのは日本建築史の川本重雄先生が紹介しているデンマークの建築史家ラスムッセンの言葉(S・E・ラスムッセン著・佐々木宏訳『経験としての建築』美術出版社、1966))。

日本の家は、庭の中に家具のように建っている。長い木製の脚で畳を敷いた床を地面の上に上げている。畳を敷き、縁側を巡らし、障子で仕切る日本の家は、我々のいうところの家というよりも、素晴らしい家具に似ている。

これを枕に川本先生は日本住宅における家具と建築の史的関係を摘出するのだが、それは日本住宅史を学んだ者にとっては常識に属すこと。いや常識なのだが、ちょっと発見的なのだ。寝殿造は柱が並ぶだけの空間で、ゆえに家具調度を並べることで生活や儀式のプログラムをリアライズしていた。一方、書院造はほとんど家具のない室内をつくりあげるのだが、それは置押板(卓の一種)、棚、御張(寝台)といった家具を建築にビルト・インすることで得られたものだ。つまりファンズワース邸や丹下自邸ほどでないとしても寝殿造はユニヴァーサル・スペースに近く、そこに並べられていた装置を、書院造では格式ヒエラルキーに沿って建築に埋め込んだ、というわけだ。家具の建築化。これを逆からみれば建築が家具化したのだともみなせよう。最近の建築家の住宅作品にも、この建築の家具化ともいうべき傾向がみられる。家具のような室内の可動装置は、生活を組み立てる上で融通無碍ではあるが、それとひきかえに猥雑な文脈を建築に招き入れてしまう。そういう家具を建築の側に吸収し、そして建築それ自体を家具にしてしまいたいというのは権力者や建築家の欲望か、それとも・・・。
ところでラスムッセンが言っているのはたぶんこの脈絡とは少し違うだろう。もっと面白いというか可笑しいというか、軽快な日本建築像を、彼は思い描いているのではないか。それはそれでなかなか射程の広い直感だと思いますよ。