世界的にみて特異な駅空間=都市空間をつくってきた会社をたずねる。

今日は東京駅八重洲口にある株式会社鉄道会館をたずね、お話をうかがった。毎週非常勤講師として通っている前任地(人間環境大学)のS君が卒論で「民衆駅」を調べていて、彼と2人での取材だった。
(↓写真『大林グラフ』1954年12月号。手前が鉄道会館。まず高さ制限31mまで建築。のち認可が下り47m・11層で完成。)
大林グラフ5412_鉄道会館特集2みなさんは「民衆駅」という言葉をご存知だろうか。戦後、全国の駅舎を復興しなければならなかった国鉄が、苦肉の策としてひねり出した駅施設およびその建設の方式を指す言葉だ。民間資本による会社を立ち上げ、この会社が駅舎機能だけでなく商業・娯楽機能を組み込んだビルを建設する。駅舎部分(通常は1F)は国鉄に寄付するが、他の部分はこの民間会社が所有・経営する(テナントを入れて賃料をとったり、直営で事業を行う)。この方式の実施第一号は豊橋駅で、1950年竣工。同年に池袋西口も完成している。
民営化以前の国鉄は出資先に制限があり、ディベロッパーとしての自由な事業展開はできなかったのである。だから民間資本でつくられた会社に建物をつくってもらうことを考え、そうして特異な複合施設が生まれたわけだ。1970年代になるとこの制限が取り払われ、国鉄が自ら出資してビルを建設できるようになる。これが「駅ビル」と呼ばれる。「民衆駅」はその直接の原型なのである。
民衆駅方式の駅舎復興、さらにはより積極的な駅空間の開発を推し進めていくためのディベロッパー+コンサルタント会社として1952年に設立されたのが株式会社鉄道会館。同社は自ら民衆駅のひとつとしての東京駅八重洲口の鉄道会館(ビルの名前)を建設し(1954年竣工)、そのビル経営(テナントは大丸や名店街等)を展開するだけでなく、全国の民衆駅をプロデュースしていったのである。全盛期には80〜90人を擁したという設計部門(会社組織)も持っていた。当初は国鉄から多くの技術スタッフが移って来たのだが、そのなかで中心的役割を担った太田和夫は、東大建築学科で前川國男の同級生だった。
今日お話をうかがってあらためて確認できたのだが、戦後日本の駅空間はやはり世界的にみてきわめて特異だ。鉄道は都市において例外的に大きな土地を要するのだが、その上空や地下は残る。これを可能なかぎり開発して複合的な商業・娯楽機能を突っ込んできたのが日本の駅空間であり、それを核としながら駅中心の(駅名で呼ばれる)都市的エリアを形成してきたのが戦後日本の都市だ。海外にはそういう例はまずない。東アジアの隣国にも。駅ビル・地下街・ガード下といった日本型駅空間の開発を推進してきたのが「鉄道会館」という会社なのである。
いま、丸の内も含めて東京駅とその周辺が生まれ変わろうとしており、大きな注目を集めている。鉄道会館の建物は、建設後半世紀を経て解体工事が進んでおり、跡地には2013年春に「グランルーフ」が竣工する予定。辰野金吾設計の丸の内駅舎の復元工事や駅ナカ「グランスタ」などとともに新しい東京駅の都市的空間をつくる。株式会社鉄道会館も大きな役割を担い続けている。
駅は戦後日本都市史の大きなテーマだと僕は確信しているが、今日はその意味できわめて興味深いお話をたくさんうかがった。ご多忙中にもかかわらず丁寧に対応いただき、また楽しい議論をさせていただいた鉄道会館の方々にお礼申し上げたい。