「室内」という問題

古建築実習中に2冊読了(夜はひたすら飲んでたけど、昼間は移動時間がある)。
ひとつは海野弘アール・ヌーボーの世界:モダン・アートの源泉』(中公文庫、1987/原著=造形社、1968)。著者29才、1968年の処女作。茫漠とした海のようなアールヌーボーの世界を、その豊かな多様性を消さずに、なおかつ可能なかぎり構造的に捉えようとぐいぐい迫ってゆくたいへんな力作だ。1960年代だと一般にはまだアール・ヌーボーはモダン・アートが乗り越えた世紀末の退嬰的装飾デザインの流行という程度の位置付けで、それを、意識の底に横たわるディオニュソス的な生成力の噴出という側面から再評価するのは同時代の近代批判の潮流と平行するが、それだけではない。「平面性」という問題を、常識的には立体と考えざるをえない彫刻や建築にまで拡張しつつ、その表面性への拘泥こそが逆説的に構造を浮上させたこと、つまりアール・ヌーボーでは装飾と構造が表面においてたえまなく転化しつづけること、それは「見る」ことの構造の開示というモダン・アートの原理的な起点となることなどを力強く説いている。アール・ヌーボーの時代はフロイトの時代であり、ベンヤミンの時代であり、ベルグソンの時代である。ベンヤミンによればアール・ヌーボーは「室内」の完成を招来するイデオロギーであった。その「室内」は、階段室や吹き抜けにおいてフロアさえも超えて流れるようにつながり、うねり、折れながらも切れない、つまり非分節的な連続体(海野の言葉では「表面体」)となる。
どうだろう、最近の建築家が設計する住宅に、このような特質を見て取ることができるのではないだろうか。分節的な強度は棄て、折れながらも切れない表面体としての「室内」が求められる。この観察が正しいとしたら、それは何かの徴候と見るべきなのだろうか。
もう1冊はアトリエ・ワン『響きの空間/空間の響き』(INAX、2009)。G・ベイトソン的な生態学的視点が、著者らの日常のなかに織り込まれて不断に生き生きと働いているのが読み取れる。アール・ヌーボー中産階級の内向的な室内=小宇宙への欲望の噴出だったのに対して、アトリエ・ワンは犬や猫や、車や、あるいは雨やホコリの粒子にすら縦横に乗り移って、都市から家具にいたる環境の配置を読み替えてみせる。生態学的世界では、いろいろな生き物や事物が互いに他に働きかけながら共存し、ひとつが動けば他もざわざわと揺らぐ。何かが他に働きかけるためにはそれ自身が少しだけ自分を変える必要がある。どんなレベルにも完結した無時間的な小宇宙はないし、それを支える特権的な超越も深層もない。そうした世界にこそ、小さな時間が囁きはじめる。



全然関係ないけど奈良のホテルで樋口可南子とすれ違いました。めちゃ綺麗でした。