自分が答えを知らない問題から出発せよ。そして直接関係ない本を読め。

《寄宿先の家の前に雑草と土に覆われた三角形の空き地があった。午後になると、八才から十二才ぐらいの路地裏(カンポン)に住む男の子の一団が、よくそこにサッカーをしに来た。まずコインを投げて裏表を当てる。そして、負けた方はおもむろに半ズボンを脱ぎ始める。下には何も着けていなかった。勝った方はズボンを穿いたままだ。裸になるか、服を着たままでいるかが、敵味方を区別するやり方だった。もちろん、ゴールポストやネットなどはない。しかし、四人の小さな弟妹たちを連れて来ていた。それも、這い這いの年齢の子供たちで、走ることなどはできない。この子たちが常時移動式のゴールポストだった!》

BenedictAnderson_frog引用は、1961〜62年、著者が初めてのフィールドワークのために住んだジャカルタでの衝撃のひとコマより。
「ほとんどの研究者にとって、最初のフィールドワークの経験ほど決定的なものはないだろう。」

インドネシア繋がりで読んだ、B・アンダーソン著/加藤剛訳『ヤシガラ椀の外へ』(NTT出版、2009)。齢七十にしてある種の回顧録であるにもかかわらず時折少年かと思わせるような若い文体が圧巻。訳者(というよりは特異な仕方で参加したもう一人の著者と言うべきか)との共同作業という書物成立の経緯もとても重要だ。そして、日米の大学の制度環境、地域研究の起源と意義、フィールドワークの現場、そして友人や書物との出会いにいたるまで、つねに具体的に自分の居場所を位置づけ、そこで何を面白がり、誰に向かって何を仕掛けようとしたかを、茶目っ気を交えつつ大真面目に伝えていて、読む者を元気にさせる本。装丁もすごくいい。伏見桃山(京都)のガード下の飲み屋で著者が描いてみせたスケッチが原案なのだとか。

院生の頃、僕のアイドルは柄谷行人で、自主ゼミには浅田彰に講師に来てもらっていた。その柄谷と浅田が一時期頻りに紹介していたアンダーソン『想像の共同体』とサイードオリエンタリズム』は、ちょうど伊東忠太からはじめて近代日本の建築分野におけるアジア認識の批判的な位置付けをテーマにしようと思っていた僕にとってはバイブル的な本になった。当時、建築分野でもかなりの人が読んだと思う。振り返ってみると、僕も、廻りのあらゆる分野の人たちも、多くはナショナリズムの批判と相対化に使える汎用ツールみたいに同書を扱っていた。それが誤った読み方であることは本書『ヤシガラ椀の外へ』を読めば歴然としている。『想像の共同体』は、アイルランド出自にはじまり東南アジアを歩いた著者の人生の遍歴に根ざす、半ば心情的ともいえるような戦略的な判断に支えられ、ヨーロッパ中心的なヨーロッパ人のナショナリズム論争の系譜・布置をコンテクストとして強烈に自覚しながら、読者ターゲットをイギリス人に絞って書かれた金的の一冊だったのである。
結局、それぞれがどんな場所にあり、どんな問いを立て、そこからどんな世界を描いてみせるか、だ。

*『想像の共同体』は僕は邦訳初版で読みましたが、いま「定本」という版が出ています。