澎湖群島調査報告 その4 「松屋旅館/中央旅社」をご紹介

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 澎湖群島調査は島々を廻る旅だったので色々な宿(ほとんど民宿)に泊まった。そのなかで一番印象深かったのがこの宿。馬公市街の中心部、古い町並みのなか。
 僕らは2005年9月にも一度ここ「中央旅社」を訪ねているのだが、そのときは3年前に営業を停止していて、ファサードはなかなか雰囲気があるものの、内部は廃墟のようだった。たまたま経営者の林さんに出会い、お話をうかがいながら、建物のなかを拝見したのである。
 2階の客室はすべて和室。8〜10帖の畳敷きで、床間や棚、押入もある。1934年生まれの林さんのお祖母さんが1923年に開業した当時は「松屋旅館」といった。5室ほどの小さな宿だったが、のちに改築し、戦中期は二十数室になった。馬公は軍港の街として栄えたから、宿泊客も兵士たちが多く、最大で100名ほども泊まったという。1階は「自由亭」という軽食堂になっていて、その奥に林さんたち家族の部屋や女中部屋があったが、それらは2尺ばかり床をあげた畳敷きの総鋪(揚床の部屋)だった。
 このあたりは中央街といって、馬公でも一番古い町並みが残る。かつては木造軸組構造を珊瑚石の戸境壁で挟んだかたちの町家が、幅2〜3mの屈曲した街路に沿ってときおり雁行しながら並んでいた。そういう町並みのなかに出現したモダンな旅館だったのである。
 今回(2009年8月)再訪すると、旅館は見事復活。他サイトによると今年7月に新装開業ということで「餅投げ」をしたらしい。あの路地に餅が舞ったんだなあと思うとなかなか感慨深い。もちろん林さんを訪ね、ご挨拶すると、奥から4年前の僕の名刺(人間環境大学時代の)を取り出して来てくれて、「ああよく来られましたね」とあらためて日本語で微笑みかけてくださった。もともとものすごく物腰が柔らかい、心配りの細やかな素敵なおじいさんだが、今回は以前よりぐっと言葉がまるい。聞けばこの間いろいろあって気苦労が絶えなかった由。ようやくここまで辿り着いたという思いのこもった一言だったのだろう。

 結局、離島部を廻った後、最後の2泊をここ「松屋旅館/中央旅社」でお世話になることにした。「中央旅社」というのは戦後の屋号。新装なった宿をあえて2つに区分し、2つの営業許可をとり、この宿の歩みをきちんと名前にすることにした。2泊目の夜は林さんを無理にお誘いして、我々5名とで海に面した海鮮料理屋で食事をとり、ビールをおいしくいただいた。実は前日にも声をかけたのだが遠慮された。本当はお酒とお話が大好きな方だ。彼の世代は日本語教育といっても戦中期はまともに学校にも行けなかった。光復後(植民地解放後)に日本人との付き合いのなかで日本語を使い、語彙も増やした。それでも島で実際に日本語を使う機会は少なく、学生たちにも「ほんとによく来てくれましたね」と何度も何度も言っていた。
 新装なった宿は、実はファサード保存で、本体はすべて新しい(→このサイトの記事を参照)。これについても家族で相当議論したのだというが、林さんはこれでよかったと言っていた。ちなみに新しい客室の一部は現代式の総鋪。つまり床が部屋全体にわたって20cmばかり高くしてあって、靴をぬいであがって、そこに日本の家屋と同じように座ったり(ということは机はちゃぶ台で、これは松屋旅館以来のものを今も使っている)、布団を敷いてごろ寝するのである。書き忘れたが、このファサードも珊瑚石(もちろん楣は鉄筋コンクリート)。

 これ(↓)は宿の近くにある天后宮(媽祖廟)。一級古蹟(国宝)。ガラスの入った欄間は日本植民地支配の影響だろう。この廟も大正期だったかに一度全面的な改築をしていたはず。このあたりの町並みは「伝統的」なスタイルで軒並み改築されているが、それでも丁寧に歩けば色々な魅力と発見がある。
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