澎湖群島調査報告 その2 100才の老人に出会うということ。

P8141117望安では90歳前後の夫婦に、吉貝では数えで100歳になろうというおじいちゃんに出会った。いつもできるだけ高齢のお年寄りを探しているが、普通は1930年前後生まれ、80歳前後という方に出会うだけでもそれなりに幸運なのだから、100歳となると、うまく話さえできれば一挙に20年時間を遡ることになる。これは大きい。時間のオーダーが変わる瞬間である。(我々の研究に即して言えば、80歳の方の記憶はどう頑張っても日本植民地末期(戦争中)なのに対して、それが中期(1920年前後)まで遡れる可能性が出てくるわけで、もしその頃に一般化している現象なら、その発生はさらに遡ることも考えうる。というわけですが、とにかくまあ20年抜ける感じはすごいのだ)

フィールドワークでは、(1)多くの人が口々に同じことを言うのである範囲での典型的状況が次々に補強されるといった強化局面と、(2)ある特定の人の語りによって時間が一挙に遡ったり、視界が急激に開けたり、仮説がひっくり返ったりする破壊局面との繰り返しである(何でもそうか)。破壊は瞬間的だが、それを検証するには強化という反復が必要。強化局面ではインタビューでもアンケートをとっているのに近い状態になりがちだが、しかし何かの拍子に我々が期待していなかったモノや語りに出会うのである。何でもない気付きが見方を大きく変えてしまうことも少なくない。見る者・聞く者の認識のフレームと手持ちのイメージが更新されると、同じモノを見、同じ人と話をしても、出て来る情報ががらりと変わってしまう。ある程度分かった、と思った瞬間に私たちの足許はすくわれるのを待つ態勢になったと思った方がよい、そして本当にすくわれる快感(これだよ!っという感じ)が来るまでモノを見、話を聞き続けなければならない。本当にアンケートをやってしまうとこのカタストロフは来ないから、僕は絶対にアンケートはやらない(信条)。
(注意:書くということは、このプロセスをどこかで切断する判断をすることです、当然。で、何割の人が言ったとか言わないとかいうデータは僕はとっていないので論文書くとき困ると思うでしょう? そこは確信とレトリックですよそりゃ)

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8月14日 早朝、鄭宅の補足調査をさせていただいたのち、10:45出航。1時間弱で望安島に着。乗組員のおっちゃん(2日前と同じ人)の手配で民宿と車を借りる(この島もレンタカーがなく一般の方の車)。民宿に荷物を置き、目当ての花宅(中社集落)へ。我らが敬愛する林會承先生(台北芸術大教授)が若かりし頃に望安を訪ねた折りにこの集落を「発見」し、のちに保存再生の対象に選ばれた。ただ現在は伝統的家屋の大半が廃墟で、それも無住というよりほとんどポンペイか何処かというような文字通りの廃墟を巡っている気分だった。しかしこの集落の活性化に粘り強く奮闘する曾さんに出会い、いくつかの家屋を案内していただく。そして90歳前後の夫婦を紹介されインタビュー。とくに奥さんが辛かった若い頃のことをよく覚えておられて家の状態もおよそ復元できた。この夫婦、戦後は高雄で暮らしてきたが、終の住処は故郷と念じ望安に帰ったものの、息子や娘が同居するわけではない。インドネシアの女の子に家のことを手伝ってもらわなければ生活も成り立たない。こうした事情は実は台湾本島でも珍しくなく、家政婦や介護あるいは医療の労働力としては東南アジアの女性を組織的に導入する仕組みがある。帰り際、この女の子にインドネシア語で挨拶。明るくてよい子だった。

8月15日 望安は1日で切り上げることとし、早朝7:30の船で本島の馬公へ。すぐさまタクシーで赤崁の船着き場へ移動し、そこから吉貝島へ。群島の南から北への移動だったので何となく「移動日」という気分だったが到着しても9:30。週末のため宿の空きがなく、港に面した美容室の上の部屋(いちおう民宿)に泊まることに(5人すし詰め!)。多忙のなかその手配をしてくれた曾さんのお父さんが「土水」の職人(前の記事を参照)さんで、彼の話を聞きながら家屋を見る。昼食後は中原大学等の学生たちがまちづくりの活動拠点としている廟を訪ね、M1の蒋さんと出会う(学生たちは彼女の寄宿先に泊めてもらうことになり宿問題は解決)。すでに朝の時点で直感したとおり、ここ吉貝の集落はその構造変化のダイナミズムが手に取るように読み取れて面白すぎる(次報を参照)。昼食後は学生たちにその把握を指示。我々は蒋さんがいつも話を聞かせてもらっているという張さんを紹介してもらい、インタビュー。さらに彼の案内で集落中を廻る。初動調査を終えた学生たちも合流。集落の全貌をおよそ理解する。

8月16日 学生たちは昨日の調査を整理しながら変化の類型化に苦闘。我々は昨日の情報を頼りに、1911年生まれ、数えで100歳になろうという林さんにアプローチ。彼は日中は雑貨屋の前にいるというので行ってみるとはたしてその人が林さんであった。彼が小学校に上がった時に与えられた部屋のことを鮮明に覚えておられた。これはきわめて重要な情報(*上記のとおり)。午後はこの島の石滬を曾さんの案内で見て回り、夕方の船で馬公へ戻る。

8月17日 一週間前に訪ねた西嶼へ。まずは池西の集落を歩く。ジリジリと文字通り焼けるように暑い。ついで二崁の陳さんのところへ。刺青の彼である。同族集落とはいえ、彼は家々に上がり込んでは「おー、日本人が来たぞ、家見せてくれるな、大丈夫、大丈夫」と高齢の家人に強引に話をつけては、我々に向かって片言の日本語で「ドーゾ」(笑)。実測。てなことをやっているうちに、澎湖本島エリアの集落はだいたい訪ねて廻ったという骨董コレクターの陳さん(この村ではみんな陳さん)に再会。彼のちょっとした話が、これまた小さくて大きな破壊局面に。当たり前であるが形態は機能を横断し、また技術は形態を横断しうる。もう少し柔らかい頭で考えてみよう。昨年の台湾南部とまるで生態系が異なる澎湖群島であったからこそ、いろいろ考えるきっかけが得られたという面もある。生物学者ノックアウト・マウス(ある遺伝子の働きを知るために、その遺伝子を抜き取って観察されるマウス)をつくるのに似てるな。

8月18日 朝の飛行機で台北帰還。海の世界ともお別れ。