尋常ならざる本が2冊届く。

休講・連休などで3週間ぶりに前任地の人間環境大学へ。非常勤講師控室のメールボックスに発見したある包みを開けてみたところ、何と「角南隆」著の本が2冊入っているではないか。
角南隆(1887-1980)という人は、昭和初期から日本の神社造営の頂点に君臨した建築家で、内務省神社局(のち神祇院)造営課長として活躍し、終戦後も明治神宮はじめ全国の主要神社の復興造営を指揮し、弟子等のネットワークも含めて大きな影響力を及ぼし続けている。このあいだの『建築雑誌』にも書いたが、独特の奥深い強靭なモダニズムによって日本の神社をいまみるような状態へつくりかえる大掛かりなプロジェクトの指導者であったとみてよい。で、この過程を解き明かすことは日本の建築史・都市史の重要なテーマのひとつなのだが完全に抜け落ちている。
角南はいつも独特の神学を持論として語っていた。それはきわめて原理的・包括的な宇宙観に裏打ちされた思想で、建築についての講演を依頼されても、神とは何かといった原理的な問題に終始して、神社建築の具体的な話にたどりつかずに終わってしまう。内務省や地方の技師たちにも、全国の神職たちにも、同じ話を繰り返したらしい。
時代はへたをすると1世紀もズレてしまうのだが、ピュージン(1812-1852)を連想する。鈴木博之『建築の世紀末』に、ピュージンのゴシック擁護論は「弁疏論」的であると指摘した箇所があるのだが(p.100)、つまり、ピュージンはゴシック的宗教文化を真としたうえで、考古学的な知見や科学的な理屈を動員してこれを弁明する。ゴシックの形態に執着したのではなく、ある宗教的・社会的理想の再構築のために、ゴシックという建築様式の構造的・機能的合理性を主張し、これがゴシック様式の現代への再生という実践を支える。これを踏まえて鈴木は、「社会制度も、技術も、言語さえも大幅に揺れ動いた明治以降の日本には、ついにピュージンは現れなかった」と書いている(p.105)。なるほどそうだと思う。
ただ、角南隆は彼の信じる宇宙=自然=神の姿を説き、神社を通してそれに呼応する人間と社会の像を描こうとした点で例外かもしれない。角南が古社の環境構成を例として引くやり方はまさに弁疏論的であり、逆に新しい神社の錯誤を糾すときには彼の神学からの演繹であった。もっとも、鈴木のピュージン論は、様式がその根拠となる思想の解体により自壊してゆく19世紀ゆえにその再構築を目指す激烈な闘争として描かれるのに対して、角南は神国日本という国家像を牽引する時代の内務省の役人という立場、つまり自らの思想が国家的な影響力を持ちえる立場にあった。

・・・それで、今回届いた二冊とは、角南の晩年の遺構であり、編者でもある角南の弟子という方が送ってくださったのであった。ひとつは宇宙論であり(2006年刊)、ひとつは神学である(2009年刊)。私を見つけてくださったことに感謝しつつ、さっそく前者を帰路にて読了。もう1冊を読み終えたら書誌情報とともにコメント書きます。もちろん、この弟子の方に是非ともお会いしなければなりません。