竹村真一郎氏インタビュー

 本日(0125.Sun)、元坂倉建築研究所員の竹村氏にお話をきくことができた。まともな評価の与えられていない、いや記録さえ少ない坂倉の都市的なプロジェクト、とくに大都市ターミナル関連のプロジェクト群について、そのかなり客観的な位置づけが見えてきた。
 およそ1970年頃を境に都市再開発事業の諸制度が整うと、これに則った大規模開発はそのほとんどが大手の組織設計事務所やゼネコン、あるいはディベロッパーの手に委ねられていき、仮に背後ではどのような混乱があろうとも見かけ上は整然たる基盤の上に計画どおりにビルが立ち並び、空中の広場や通路で接続される、といった風景が思い浮かべられるのだが、渋谷、難波、新宿などの駅まわりの実質的な形成は1950〜60年代であって、これを物的・空間的な計画の面で担ったのが坂倉であったと言えそうだ。出来上がった風景もそのプロセスも、70年以後とはまったく異質である。これがマクロな時間的コンテクスト。
 一方、空間的なコンテクストも大きく掴まえられそうだ。すなわち、戦後、建築家が都市形成に直接的に関わりうるポジションは、郊外住宅地と都心部再開発の両方があったが、都市的な指向性を持つ多くの建築家たちが住宅団地に携わったのに対して、坂倉にはそれがまったく欠けており、かわりにターミナル開発などでは坂倉以外の活躍はほぼ見られなかった。
 この構図に、建築家たちの社会的バックグラウンドが明瞭あるいは微妙に重なっており、坂倉の特異性はその面でも際立つ。そして以上のことは、個別的営みの集積であるところの都市への建築家の関わり方の様式(設計手法)として受肉化するだろう。
 以上はお話をうかがった上での私の整理だが、そもそも竹村氏のお話の客観性が驚異的だった。我々としてもそれなりの仮説があり、それをぶつけながらの理想的インタビューとなったと思うのだが、それに対して竹村氏も、あるいは即座に端的な言葉で、あるいはゆっくりエピソードを噛み締めながら答えてくださり、我々もかなり追求させていただいた。その結果として、歴史的な位置づけをずいぶん追い込むことができたわけである。
 おそらく、このようなやりとりが可能だったのは、竹村氏ご自身が坂倉事務所のなかで外在的な枠組みを持ち得た特異な立場にあったことから来るように思う。ご自身が芸大卒でありながら、建築家の都市的プロジェクトをクールに見ることができる、文字通りの都市計画行政を含む「都市計画」の眼をお持ちだったのである。

 竹村さん、長時間にわたり本当にありがとうございました。
 そして北村さん、今回もありがとうございました。きちんとやりますヨ。