船上にて。S氏と、彼の父親と。

 8月の調査最終日に白沙崙にいた我々と横を通りかかったSさんとの約束で、二仁渓を彼の船で遡る。彼は筏協会のリーダーで、この川の環境改善のための運動を率いて奮闘してきた人。我々が調べている竹市がかつて開かれていた川岸の広場は、やがて竹市が開かれなくなる頃から、それと入れ替わるようにして廃棄物処理業者の仕事場になった。電気コード等のゴムを溶かして銅線を取り出すような簡単な仕事から、家電製品やコンピュータの基板から金や白金などの金属を取り出す商売へと発展し、アメリカなど海外からも廃棄物を買って処理するようになった(1990年代にこの種の商売は中国へ移動した)。その規模たるや、残された廃棄物の撤去だけで数十億円の税金を必要とするほどであり、水質や土壌の汚染がひどく魚は2種類しか確認できなくなるなど、二仁渓は台湾で最も汚い川という汚名に甘んじることになった。10年ほど前、白沙崙等の漁業者たちが草の根的な環境改善活動のためにつくったのが筏協会。今日は彼がそうした経緯を船上で説明してくれるというので、成功大学の工業科学の専門家たちと同船。歴史的・社会的文脈への視野が広がったし、水面から両岸をみるのは市場のイメージを確かめる上で大事な経験になったと思う。
 台湾では、こうした草の根の活動がさまざまな分野で重要な役割を担うようになってきた。活動の軌跡、かつての汚染の過程、それ以前の記憶を含めて、この川と人のかかわりを総体的に記録化し、それを語ることが重要だと思う。彼もその通りだとうなづいていた。もうひとつは協働できる他団体とのプラットフォームをどうつくるか。これは各団体の規模や利害の違いもあって現時点ではなかなか難しいとのことだった。成果が少しずつ見えはじめているだけに、次の一歩が重要になるのではないかと思った。
 Sさんは嬉しい出会いも用意してくださっていた。彼の父親を連れ出してくれていたのだ。舟上での彼との会話は楽しかった。1915年生まれの83才。彼からも竹市の話など、子供の頃の記憶を聞いた。我々のイメージする景観や構造が1920年代くらいまで遡ることは確実だ。
 彼は白沙崙で生まれ、公学校(植民地下の台湾人向け小学校)を卒業したのち、二仁渓河口に設置されていた税関に勤めていたが、18のとき戦争で南洋へ。台湾各地から集められた250人の台湾人青年たちとともにボルネオ(カリマンタン)島へ行った。「ボルネオは行ったことがあるか」「はい、あります」「Banjarmasinは行ったか」「ええ」「他にはどこに行ったか」「Balikpapanとかですね」「あそこには日本の石油蒸溜工場があった」「そうですか、他にはSamarindaですね」「おお、あそこの川はなあ、水深が30mくらいあって、流速は4Km/h、流域にはサルやイノシシがたくさんいる」・・・彼は上官の命令でそういう調査をしたのだという。ボルネオは資源の宝庫だから、その輸送に関係する調査だったのだろう。いずれにせよ、僕が行ったことのある場所ばかりで話ははずんだ(同じ川を、僕は大学院の先輩と2人、ロングハウスをみるために小さなボートで8時間遡ったことがある)。彼はオランダ人が200年前につくったという煉瓦造の建物に寝泊まりしており、現地の人々との交流もあったらしい。インドネシア語の数字を1から10まで数えて笑っていた。僕も一緒に数えた。
 しかし戦争も末期になり連合国軍が上陸するとひたすら逃げ惑う日々となり、食うことも寝ることもできず、みな病気になった。終戦から半年後、台湾に帰ったのは80人だったという。2/3はボルネオで死んだ。
 舟を降りる直前に彼は僕にこう言った。「人間の一番の幸福とは何か。社会の平和と、個人の自由だ」。彼が戻った台湾には国民党がやって来たが、もうどんな政府にも関わるまいと決意したという。