曾文渓も確認。

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調査2日目は曾文渓の河口にほど近い西港へ。この河に上流で注ぐ菜寮渓の流域(左鎮)ではすでにインタビューをしたことがあり、10mほどの竹の束をつないで1km(長いものでは3Km)という長大な筏を流すのを毎年見たという証言を得ていたが、これを下流で確認すべくこの街に来た。昨日とはちょうど逆だ。ただし西港に竹が運ばれていたかどうかも不明なほど情報不足。わずかでも手がかりをと街の中心にある廟「慶安宮」の前で車を降り、廟守のおじいさんにこのあたりの歴史、とくに川とか物流とかを知りたいのですが郷土史に詳しい方などご存じないですかと話しかける。すると12時半以後なら手が空くからまた来いと。言われるがままに1時間半後に再訪した僕たちは、果たして彼自身が無二のインフォーマントであったことに驚く。
実はこの有名な廟の背後にあった広場こそ、かつては竹市の開かれる場所だった。しかし、ここから曾文渓の川岸までは1Kmばかり離れている。しかも流れてきた竹を引き上げる場所はわずかながら上流へ遡った東竹林と呼ばれるあたり。彼は若い頃に自分の兄貴たちとともにこの東竹林へ通い、商人たちの差配に従って廟の市場や他の集落などに竹を運ぶ仕事をしていたのである。彼は六人兄弟の五番目。家には牛が2頭いた。兄貴たちが牛車で竹を運び、自分は付いて行って牛に餌をやるのが役割だったという。
二仁渓では「山の人々」が自分たちの竹とともに流れて来た。しかしここ曾文渓では、逆にこのあたりの商人に率いられた近辺の村人たちが山へ出かけて行って伐り出した竹とともに戻って来たのだという。東竹林はこうした竹採りの若者たちを毎年送り出した村のひとつであったらしい。
幸運に恵まれて今日もかなりの収穫だった。これで、二仁渓、曾文渓という二つの河川流域にたしかに竹の流通ネットが形成されていたことが確認できた。明日はふたたび二仁渓へ。