二仁渓を遡る。

朝6:30発の高鐵(台湾新幹線)で台南へ。馴染みのドライバーSさんのタクシーで白砂崙へ。台南県と高雄県の県境を流れる二仁渓の河口付近(高雄側)。かつて竹の市場が開かれていたところだ。8月の調査最終日に得た情報を頼りにTさんを訪ね、幸いにもインタビューをさせていただくことができた。話を聞いているうちに徐々に分かってきたのだが、どうやら彼は1960年代から衰退・消滅までの、いわば白砂崙竹市場(こういう呼び名があったわけではない)の最後を見届けた人物である。思い切って言えば、彼はその時期、ほぼ独占的な仲卸業者としてこの市場を支配し、同時にこの台南県南部から高雄県北部にかけての沿岸部集落の家作を手広く請け負う建築業者でもあったらしいのだ。
またいくつかのインタビューを総合すると、T氏躍進以前の市場の姿は、「山の人々」が自ら運んできた竹をそれぞれに売るフラットな場であったと考えられる。彼らは自分の山の竹薮から伐り出した竹を、川が増水する時期を待って筏に組み、そこにトラック一台分ほどの竹を束ねて山のように積み上げ、自らその上に乗って川を流れて来た。
それならばと、午後は「山の人々」を訪ねて二仁渓を車で遡る(といっても川沿いに道が続いているわけではないが)。田寮郷の古亭という地区まで来たところで、道ばたで日向ぼっこするおじいさんに声をかける。彼はKさんといい、聞けば2回だけだが自分の竹に乗って白砂崙まで川を下ったことがあるという。戦後間もなくの頃だ。その頃、時期が来ると村の人々は声をかけあって筏をつくっては川から流れていった。5つ前後の筏が繋ぎ合わされていたという。こうした筏とともに川を下る人の数は優に百人はあったという。流域には(上流にも下流にも)他にも集落はいくつもあるから、白砂崙の市場へ流れ着いた山の人々は相当の数にのぼっただろう。
しばらく話をした後、Kさんがむかし筏を組んだという場所へ案内してもらう(写真)。以前は川幅も広く水深も深かったが、雨期にはさらに水嵩が増すので、その頃に川辺へと竹を担ぎ、筏を組み、ここから白砂崙まで仲間とともに2泊の旅となる。竹が全部売り切れると1日がかかりで歩いて帰ったのだという。
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これでようやく、台湾西部を東西方向に流れる幾筋かの川に沿った、流域的な地域構造と、それを背景とするヴァナキュラー住宅の分布パタンがかなり見えてきた(南部でのケーススタディだが)。植民地支配はこれにまったく異質な構造を重ね、やがて家屋を変質させていくことになるだろう。