大風呂敷と匿名的日本

国立歴民族博物館のシンポジウム「アジア比較建築文化史の構築−東アジアからアジアへ−」に出かけてきた。12月6日(土)、7日(日)の2日間の日程だが、僕は1日目だけの参加。テーマがテーマだけにスピーカーもコメンテーターもよく存じ上げる方ばかりだが、久しぶりに会う方も多くて嬉しかった。ただ依然として僕の声は辛うじて出るかどうかという感じで、ちょっと喋るともう出てくるのは言葉にならない息の音だけ。ああ参った・・・。
さてシンポだが、問題提起は企画者の玉井哲男先生、基調講演は布野修司先生。以下、台湾、モンゴル、ネパール、インドの報告と続き、明日はベトナムインドネシア、そして討論というプログラム。
基調講演が終わったところで会場の佐藤浩司先生からいきなり厳しい質問。ナショナリズムが無効化した今どんな視座で日本からアジアへ出るのかも実はあやふやなのではないかと。それに、タイに行けばタイの、インドに行けばインドの視点に立てばよいというのはそれぞれのナショナリズムに仮託しているだけで欺瞞だと。布野さんの基調講演はちょっとやそっとでは追いつけない膨大な世界建築史の研究蓄積によるものですごいのだが、佐藤さんの苛立ちは別の次元にある。もちろん、視座が見つからないからといって自虐的に先学の批判研究ばかりやっても見えないものは見えない。
僕もひとつ言いたいことがあったので言った(声を絞り出して)。先史的基層から近代世界システムの形成まで明快なフレームと多岐にわたる事例が紹介されたが、なぜ日本植民地への言及がないのかと。(もちろん、僕はやるよ、という意思表明ですけど)
ちょっと今日のシンポそのものからは離れて一般的に言うのだけれど、一国史を乗り越えるとか言う場合、こんなに世界は繋がっている、こことあそこも繋がっている、ここも多民族、あそこもハイブリッド・・・といった指摘がいかにも知的な開放感をもって響きますよね。そういうとき、たいてい日本が植民地宗主国としてアジア地域に何がしかを刻み付けた歴史は触れられない。というと何だか倫理を云々しているみたいだが(いやそうなのだが)、つまり日本が朝鮮半島とか台湾とかに植え付けてしまったものを同じ開放的な論調で語れるだろうか、ということ。もし語ってしまったら、とたんに全部がぎこちなくなってしまうのではないか。日本は色々なものが流れ着くターミナル・アイランドだという天心−忠太的な文化論の枠組みは、日本をすっかり受動態にしておいた上で、でも選択や変形もしましたよと内部的に反転するのであって、ずるい。その伊東忠太が、自分が朝鮮神宮を設計したことの意味について何も語り得なかったことはある意味で象徴的だ。この精神構造は今も尾を引いている。むろん植民地の歴史研究はなされてきた。しかし語られているのは近代化もしくは西洋化の媒介者として、奇妙に匿名化された日本だけだ。これではアジア建築史も何もないと思う。
僕がこのところ確信しているのは、もう大風呂敷を広げてゆく作業は僕たちの世代の仕事ではないし、かといって個別のフィールドで精緻化するというのも違うだろうということ。で、当面やり続けたいのは日本植民地を日本(歴史的な、他ならぬ日本)が設定し、自らを放り込んだ場としてちゃんと描くことなのである。匿名化するのでもなく、糾弾的な倫理観を振り回すのでもなく。これは支配された側の具体をきちんと掘り下げることと同義かもしれない。なんか書いてるそばから誤解を招いている気がしてならないのですが、分かっていただけるでしょうか。