近代建築史13/「我々」の世界史的前提〜日本の初期建築運動

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ヨーロッパ、アメリカ、日本のモダン・ムーブメントが同じ時間断面で見渡せるように、相関年表のごときものを作成して配布した。それなりによく分かるものができた。たとえばコンドル先生が来日した1876年というと、英国にArts and Craftsはあるが、次なる運動への展開はなく、辰野金吾が英国へ留学(インターンシップ)へ出かけた1879年時点でも事情に大差ない。ところが伊東忠太が世界旅行に出て中国からインド、中東と旅をしていた頃(1902〜05)はもうArt Nouveauがフランス・ベルギーはもちろんグラスゴーバルセロナなどあちこちで流行、ウィーンではSecession(Art Nouveauの一派ともされる)がすでに花開いている。1910年代に入るとドイツやオランダでは表現主義の建築が建つようになっている。そのタイミングで佐野利器の「建築家の覚悟」とか野田俊彦の「建築非芸術論」とともに、後藤慶二の諸言説や「豊多摩監獄」竣工といった“出来事”がつづく。・・・この頃、たしかヨーロッパの雑誌など船便で3ヶ月くらいで日本に届いたとどこかで読んだ記憶がある。この時期いちばん層が厚かったドイツ・オーストリア・オランダあたりを中心に、情報はほぼリアルタイムで入ってきていた。そういうなかで、「我々は起つ」なのである。もうとっくに世界が閉じてしまっていたのだということを、したがって同時性 (synchronism) の世界に「我々」がいたのだということを僕らはよーく心得ておかないと「昔」を見くびってしまう。彼らが「世界に向かって宣言」したのもあながちナイーブだったとばかりは言えない。世界がそれなりにリアルであったればこそ、日本回帰もまたリアルな問題だったのだ。