西洋建築史09/晩期ゴシックからルネサンスへ

まずゴシックについて補足を2点。
ひとつはコルドバのメスキータ=カテドラルについて。切妻屋根の反復による工場のごときモスクのホールを食い破って、フライングバットレスを持つ聖堂本体が屹立する。大聖堂はリブヴォールトを持ち、後のバロックの要素も混じるが、その外側は花弁アーチで飾られた広大な柱の森が埋める。異質な二つの一神教の空間が互いに他を破壊しつくさないで併存することの異様さ。これは僕も実際に足を踏み入れて唖然としました。
もうひとつはゴシックの地理的・時間的展開について。余裕がないので主に英国を紹介。ゴシックの空間理念を支える技術であったリブが、その理念を忘れて増殖し、複雑化し、装飾化していく。グロテスクな表層の暴走。
そして13世紀末から建設されてきたフィレンツェのドゥオモ(大聖堂)が15世紀初にクライマックスを迎える物語からルネサンスの幕が切られるのだが、ここでもゴシックは同時代的存在であることに注意しよう。ブルネレスキのドームは尖頭形であり、リブによって構成されるのだ。そもそも建築家や工匠たちにとって手持ちの技術はゴシックのそれであり、フィレンツエのドゥオモもイタリア的なゴシックである。しかし、ピサやシエナの大聖堂に刺激されたドームのあるカテドラルの計画をさらに拡張したため、直径40mといった八角形平面に高さ55mの位置からドームを築かなければならなくなっていた。ブルネレスキによって実現された軽量のドームですら37,000トンもあるという。それを支えられる足場と型枠を木材で組むことは不可能。だからドラム部から水平のリングを積層させて徐々に上へ持ち上げ逓減させてドームとする方法がとられたが、これはブルネレスキのローマ調査の成果でもあった。古代ローマのバシリカは廃墟ばかりだったが、フィレンツェのドゥオモより大きなドームを持つパンテオンは完全に保存されていた。ただ、パンテオンもバシリカの廃墟も、ゴシック時代の技術者からみればそのコンクリートたるや大変な厚みであって、その厚さがあればドームの生じる推力を受け持てることは分かっても、ゴシックの常識でつくってきた構造体には適用できないし、コンクリートも遠い昔の技術に属していた。それゆえゴシックとローマの複合という第三の道が模索される。リブはゴシックの惰性だったのではなく、技術上の要請から新たに再発見されたことに注意しなければならない。再発見されたのは古代だけではなかったということだ。重源の大仏様(日本建築史です、念のため)がそうだったように、ある種の技術合理主義は実験的なハイブリッドを成し遂げることがあり、そのとき技術は既成の様式から自由になって透明度の高い実験場をつくる。かくして、エスカレートする大聖堂建設の都市間競争のなかで、雨露も防げない聖堂をつくった都市として笑い者にされかねなかったフィレンツェの市民はブルネレスキに救われるのである。ドゥオモのドーム工事を監督する十数年のあいだに彼が手がけたいくつかの建物が、初期ルネサンスの規範となるひとつの所以であろう。
それにしてもルネサンス期にゴシックがどう生き残るかはかなり興味深いテーマだと思うのだが勉強不足だなあ(ちなみに19世紀の新古典主義でもフライングバットレスはそれとは分からないようなかたちで生き残るというのをフランプトンの『テクトニック・カルチャー』で読んだ)。

西洋建築史08/大聖堂の世界〜ゴシックとは何か〜

第7回(前回)、教会堂とモスクの比較をやったが尻切れ気味だったので再度まとめ直し。その上で、「どちらがより“一神教の空間”にふさわしいか」という問いを学生に投げて挙手させてみたところ、モスクの圧勝であった。なぜならモスクは、絶対的超越性としての神に対して絶対的に現世にとどまる他ない人間が絶対的な服従を表明する空間であり、表象しえない神の世界を表象することは棄てており、個々のモスクでは完結せずただメッカに向かって祈るための無数のモスクが唯一の神の下に吊り支えられた唯一のイスラム共同体を表現するのみなのであるから。学生たちがこちらに挙手したのは一定の理解に到達したがためだろう。ただ、イスラムの教えに服していない僕には古典期のまるで倉庫のようなモスクに入っても宗教的な観念を感得することは難しい。いや正確に言うと、僕はイスラムの教えを少しは知ってはいるから、モスクで伏臥する人々を見て、これこそが近づくことを許されない神への人間の態度であることを知り、平伏するための空間が禁欲的に用意されていることこそ逆説的に宗教的観念の表現なのだと感銘を受ける。しかし、ゴシックの大聖堂に入れば信仰も知識もない人間でさえある宗教的な感興に没入することになるだろう。その秘密について今日の授業では技術的・図像的な角度からより突っ込んで考えてみたわけだが、つまり内部空間を軽やかに上昇する線と厚みのない光のスクリーンへと還元してしまうこと、それをさらにステンドグラスや彫刻によって意味の世界(聖書や福音書の教え)で満たしていくこと、そのような仕方において教会堂はそれ自体が超越的世界たろうとする。そのために組積造における石の物質性と圧縮に耐える力学とを消し去るのだが、それは内部では消去すべき石の量塊性と力学的緊張とを外部では露呈することを厭わないほどに強い欲求なのだった。さて、それでもモスクの勝ちですか、かなり迷うんじゃないですか?
そもそもイエス最後の審判で全人類の罪を一身に背負って死ぬが、しかし間もなく彼が復活する事実をもって神は人類の罪を許したのだと解釈され、ゆえに神の世界の実現はすぐそこに迫っているのだから聖堂を建てミサを行ってその日に備えよ、とキリスト教では説かれる(つまり神の世界と現世とが一体化するのであり、人間と神との距離が無化される、その日が来ることになっているのだ)。ミサの聖体拝領(キリストの肉と血を取り込んで一体化する)も示唆的。教会堂の思想の本質はきっとこのあたりにあって、それはモスクの思想とはまったくかけ離れている。
絶対的超越性に対して人間がとることのできる態度として、両者はやはり相当に突き詰めた回答を示してきたと思う。建築的回答もまたしかりである。

西洋建築史07/一神教の空間 〜教会堂とモスク〜

 第2回中沢新一にならって掲げておいたヒトの3つの革命を思い出そう。第3の革命はモーセの革命(3千年前)だった。これは建築に決定的な目標を与えたはず。モーセの前に現れた神は、アニミズム的な精霊でもなく、多神教的な神でもなく、表象を禁じる絶対的な超越性そのものだったのだから。この神の教えがユダヤ教となり、また同じ神のお告げをより正しく伝えると主張して登場したのが2千年前のキリストであり、さらに同様のことを重ねて主張したのが1300年ほど前のムハンマドである。では、この唯一絶対の超越性であるところの神に人々が集団で礼拝する空間とはどのようなものであるべきか? この問いに、教会堂(キリスト教)とモスク(イスラム教)は明瞭に異なる仕方で答えてきた(単純化して対比を強調してみる)。
教会堂は、伸び上がる塔を林立させ、内壁面を神秘的な発光面とし、また聖書にちなむ象徴で埋め尽くすことで、建築それ自体を天上世界と化そうとする。加えて人々の意識を祭壇へと集中させる奥行き深い軸的な構成、天上へと人々を誘う際限ない高さへの希求に沿って進化した。人々はこうした空間に包まれ、自らを浄めることで神の領域に近づけると信じる。
一方、モスクの空間は平面が方形もしくは幅の広いホールである。その空間や架構は地域によって実に多様だが、古典期では天井の低い薄暗い多柱室だった(ペルセポリスの百柱間を想起せよ)。ホールの奥の壁に聖地メッカの方向を指示するミフラブという窪みを穿つことは不可欠だが、それ以外に建築形態を規定する要因はなく、モスクそのものを理想郷の表現とする志向性は基本的にはない。人々が床面にひれ伏し、神への絶対的服従を確認する、そのための場であればよい。
世界中のモスクがすべてメッカの1点を向くのは、個々のモスクがそれ自体としては完結しないこと、むしろ地球全体に広がる大きなイスラム共同体が前提にあることを物語る。実際には様々な荘厳が施されるが、神の世界はモスクにあるのではなく、人が近づきえないどこかにあるとしか言えない。一方の教会堂はどれもが理想郷のある東を向き、光と彫刻の荘厳によってそれ自体が個々に完結的な理想郷を表現することによって、どこかにある神の世界から離れているがゆえに近づこうとする人々の希求を駆り立てる。
というわけで、いずれも相当に突き詰められた回答だとは思えるが、学生諸君はどちらがより一神教の空間にふさわしいと思う? 

西洋建築史06/アーチ系技術の展開〜ローマからビザンチンまで

古代ローマの建築生産上の大きな特徴はコンクリートを大々的に用いたこと。ポゾラナ pozzolana と呼ばれる土(火山岩が砕けてできたもの)に、石灰と水を混ぜ、骨材として石や煉瓦の砕いたものを加えて突き混ぜれば水中でも凝固する。で、この話をすると服部長七が発明した明治期の「人造石」を思い出さずにはおれない。花崗岩(火成岩の一種)が砕けてできた真砂土(まさつち)に消石灰と水を混ぜて突くと凝固するというもので、宇品港(広島)とか明治用水の堰(愛知)といった華々しい業績で分かるとおり水中で硬化して信じがたい強度と耐久性を発揮するのだが、鉄筋コンクリートの普及までの過渡的な「代用技術」というやや貶められた位置づけに甘んじている。実はこれ、日本では昔からおなじみの「三和土(たたき)」という土間を固める技術の応用で、実際「長七たたき」とも呼ばれた。で、いま書いた製法はローマン・コンクリートのそれとよく似ていることにお気づきだろう。僕は専門家じゃないのでいい加減なこと言うとマズイかもしれないが、古代ローマのコンクリートと三和土は親類なのかもしれない(長七たたきについてはINAXの技術者たちが科学的に研究されたことがあるので興味ある方は当たられたし)。
それはともかく、乱石や煉瓦を積んで型枠とし、コンクリートを充填して型枠ごと建築化してしまう方法を古代ローマ人はとった。つまり古代ギリシアまでの建築物をつくっていた巨大な石塊ではなく、はるかに小さな部材とゴツゴツ、ドロドロのものとで巨大な構造物をどんどんつくった。彼らはコンクリートでアーチをつくり、その展開・複合の系列的発展によって高く広い三次元的な内部空間を生み出していく。それをさらなる到達点にまで高めるのはビザンチンで、課題は柱4本でできた正方形平面のベイにどのような上部架構をつくるかであった。ビザンチンの成果は、やがてロシア建築の独特な表現を生み、またビザンチンを滅ぼしてトルコに君臨したオスマン帝国によってモスク建築に取り込まれていく。
来週は(今回は説明を省いて話を進めたが)宗教そのものに迫りつつその建築的形式化について考えることにしたい。ローマ帝国によるキリスト教公認後、教会堂建築がいかに組織されていくか。同時にモスク建築との比較も試みよう。

西洋建築史05/市民生活の空間〜ギリシアとローマ〜

 メソポタミア以降の古代オリエント世界とその蓄積の上にある古代ギリシアの何が違うか。前回は構法と表現の問題を軸にしたが、その観点からみると、壁で囲われた内部の列柱ホールという構成(ペルセポリスの百柱の間みたいなもので、のちに古典期モスクにも受け継がれる)をひっくり返して、壁の箱の外周に列柱を巻き付けたことは大きな転換であるように思う。柱を中心とする比例体系(オーダー)という審美観はこの転換に基礎を置いていると思うのだ。
で、今回注目したのはもうひとつ、市民生活のための空間装置が誕生したこと。言うまでもなくアゴラである。これ以降、現代にいたるまで、西洋都市は広場を核とすることだけは維持した。しかし、ストアがわずかな厚みしか持たない細長〜い列柱郎であったのに対して、古代ローマのフォルムにはその何倍もの幅をもった広大な内部空間が現れる。つまりバシリカのことだが、その内部空間はしかし、もはや百柱の間のように扁平で二次元的な暗い柱の森ではなく、大きなスパンで十分に間を置いてそびえ立つ柱列の上に、半円アーチのクリアストーリ(トップサイドの開口部の並び)をそなえた、高く、明るく、三次元的な空間なのであった。実に古代ローマは、神殿、バシリカテルマエ、アンフィテアトロなど様々なビルディングタイプにわたって、膨大な数の人々を収容しうる巨大な空間を、しかも平地に人工的につくりあげた(ギリシアの劇場や競技場や議場の階段席は、いずれも自然地形を使ったものだった)。
次回は再び構法技術の話をすべきですね、どうして彼らはそのような壮大な内部空間をつくることができたのか、また(ギリシア人は人口が増えるとすぐに植民都市を築いたのに)ローマはなぜ100万都市にまで成長しえたのかを説明するためにも。

西洋建築史04/組積系と軸組系〜オリエントからギリシアへ

1015 メソポタミア、ペルシア、エジプトなどの古代文明にみられる建築物をみてゆくと、石という同じ材料がいくつかの構法とその複合という高度な水準にまで高められていくのが分かる。構法、正確には構法の術 art of construction とでも言うべきかもしれない。つまりは力学的な仕組みとしての構造(structure)と組み立てる方法体系としての構法(construction)とを建築的意図と照応させ一定の形態へと収れんさせる術をそのように言ってみたいのである。すると、構法でいう組積造の系統はメソポタミアのzigguratやエジプトのpyramidのような稠密な「量塊 mass」から、一定の領域を区切ったり空間を閉じたりする「壁 wall」までのレンジがある。一方の軸組系はペルセポリスの百柱の間やハトシェプスト女王葬祭殿の多柱室のような「柱−梁 post-beam」の形態をとる(column-lintelというべきかな)。石や煉瓦に、これだけ異なる表象的性格を与えたオリエントの建築は、それを施設や部位に応じて使い分けつつ複合させ、高度な建築コンプレクスを生み出していた。
このうち、最も古い時期には建築史の主役の座にあった量塊性の極がやがて後退して消えてゆき、「wall」と「column」とが残る。ギリシアの神殿は、オリエントではwallの囲いの内に並べられてホールをつくっていたcolumn群を、wallの箱(神室)を取り巻く外周柱列へと反転させたものと言ってもよいだろう。柱列が露出し、そのリズムが彫塑的な建築表現の主役となることで、columnとwallのグリッド・システム的な整備が促され、またcolumnを中心とする比例秩序(オーダー)の整備が要請されていったと考えられるだろう。
ちなみに古典期ドリス式の神殿では柱高比(柱の下部直径に対する高さの割合)が4〜5の、かなり古拙的というか要するに重々しく鈍い感じのものが多いが、イオニア式・コリント式が主流になると柱高比9〜10といったすらりとした柱をたくさんならべた優美で軽快なデザインが一般化する。これだけ柱高比が違うと、同じギリシアでも全く異質である。4とかいう例では、ほとんど柱礎や柱頭がお隣どうしでくっついてしまいそうだが、柱がすらっとして、柱間が空いてくれば、グリッドシステムの意識も先鋭化せざるをえない。また、columnといってもかなりマッシブで過剰なほどの圧縮力の表現であった古い事例と比べたとき、のちのものでは柱列がほとんどスクリーンのようにすら見えてくる。このあたりに、古代ギリシア人がリズムやプロポーションへの感性を研ぎ澄ましていく様子がうかがえるように思うがどうか。

西洋建築史03/都市の誕生〜メソポタミア〜

前回の主題は、新石器革命による「建築の誕生」だった(ただしそれは、洞窟から出たヒトが、地上に資材を積み上げたり結び合わせたりして建物を構築しはじめたことを意味するのであって、「建築 Architecture」概念の誕生はまた先の話題)。メソポタミアギルガメシュ叙事詩に「神殺し」(森の精霊を殺す)の主題があるのは、旧石器的想像力を打ち破った革命の精神的な埋め合わせであったに違いない。
さて初期の主な建物は、住居、祭壇、墳墓などであったようだが、やがて農耕がそれなりの社会を生み出し、しかも収穫の余剰を定常的に生み出せるようになると話が変わって来る。余剰は危機に備えて備蓄され、備蓄は神に捧げるかたちがとられたが、その管理者としての神官こそが、いわば最初の「専門家」だったと考えられる。神官を中心とする祭祀集団の周囲には専門の工人集団も形成され、備蓄の防衛のためには軍隊が生み出される。堀と城壁をつくる労働力にも、余剰の小麦を与える。余剰を徴収して備蓄化し給与する仕組みは官僚機構を生み出していく(ちなみに神官と将軍との関係のありようは様々で、それが国家のありようを決めることは、日本史がよく物語るところである)。余剰が大きければ、他所でしか産しない品々との交換も活発化し、商人が生まれるだけでなく、都市には多様な異郷者たちが出入りするようになり、多様な風俗が生み出されるだろう。こうしてみるみるうちに食糧生産に従事しない人々の人口が膨らんでいくが、彼らが便益と防衛のために集まって住んだのが「都市」なのである。

都市とはしたがって「扶養される人々」の集住地であり、それを支える周辺の農民たちが「支配される人々」となる(恐るべき逆説ですね、ゆえに歴史が動くわけではありますが。ちなみにあえて両方とも受動態にしてみると異様な効果があることに気づきましたがどうでしょうか)。

誤解してはならない点は、はじめから「農民」がいたわけではないこと。いや皆が農民だったわけだが、彼らは農閑期には道具等をつくるし、簡単な交易くらいやっていた。つまり、誰でもいろいろなことをやるのが当たり前で、我々がついつい抽象的に想定してしまうような専業的農民は、この「都市」という仕組みがつくり出した分業体制の産物。しかも彼らはやがて農産物以外のモノをいつしか都市に頼ることになる。貨幣もあるしね。このように都市との関係において位置づけられた周辺を後背地 hinterland という。都市と後背地とがセットになる仕組みを「都市」と呼び直すべきなのかもしれない。これが国家でもある場合、このセットは「都市国家 city state」と呼ばれる。

さーて、以上はメソポタミアでのケーススタディから抽出された古典的な思考モデルだが、そのストーリーのなかに以後の建築史で主として取り上げられることになる建築種別 building type がかなり登場していそうなことに気がつくだろうか。倉、神殿、宮殿、役所、要塞などなど(しかもこれらはほとんど類縁関係にありそう)。

そしてウル Ur の復元CGでも非常に印象的なのは、周辺農村の家々は今もイラクの田舎にみられる特徴的な葦(あし)の家なのに対して、都市は日干煉瓦を積み上げた矩形のコートハウスに埋め尽くされていること。市民階層が力をつければ、この都市型住居も建築史の主役になっていくだろう(ルネサンス)。(というわけで、建築史はまったく階級的な構造のもとに語られてきたことがあまりにも明らかなわけです)